不登校の悩み:親が家を空けていたら、日中ずっと好きなことだけするんじゃないだろうか。
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ずっと顔を合わせていることの弊害
最近、いろいろな方とお会いするのに家を空けています。
低学年だと危ないですが、高学年にもなると、一人で家にいることは問題ないはずです。しかし、不登校となるとはなしは別。
監視というほど厳しくはないけれど、親の目がなければ、
「一日中ずっと好きなことをして過ごしてしまうのではないか」
という不安がありました。外出の場合は、小学生であることプラス日中に子供が歩くこと(=不登校)の問題から、親が今のところは一緒に行動でOKだと思うのですが、家のなか、しかも学校へも外へもいかない状態で、365日というのは、親も子もお互いの目線に疲れてしまいます。
からだも大きくなってきたことで、お互いイライラしてしまえば、暴力沙汰になる可能性もある。お互い気を使って、お互い頑張っているにも関わらず。
知っているけど、見ない
好きなことだけしてしまうかも、という恐れも抱きつつ、「あえて見ない」。
知っていますよ、隠れてやっていること、でも指摘しない。
度を越したようなことは指摘する、親が工夫する、話しあう。一緒に住んでいる年齢のうちはそれができるから。大人になったら、そこは本人の責任。
親が一緒にいるうちに、嘘をついてる部分とか、好き勝手にさせておくと失敗にする部分、性分、没頭してしまうこと、我慢できないこと、そういうのを出していい環境を作っておいたほうがいい。
自分の性分や、没頭してしまうことをわからないまま、大人になって自由になって、限度がわからなくならないように。きっと、「うちの子に限って」っていう親は、一個一個の行動に関してひとつずつ、ダメ、って止めてるんだろうな。
そして、それをいうこと聞くから=いい子。でも、親の「ダメ」がないところで出る性分は、本来のその子のもの。それを親の前で出させてしまったほうがいいんじゃないか、って思うのです。外の社会や、大人になってからではなく。
子供の未来図を探る、観察する
そう考えると、学校も行かず、親が家を空けたら、何をするか、今のうちに見ておきたいと思ったのです。
you-tubeでも見続けるのだろうか、寝続ける?
マンガばかり見る?
「学校へも行かず、ためにならないことを。。」
と思ったことがなかったわけではありません。でも、立ち止まって考えてみると、
学校へ行って習って覚えていることって人生にためになっているかな?
もちろん、何も役立たなかったっていう意味ではなく、学校へ行かないと人生まったく意味がない、っていうくらい役立っていたかな?といえば疑問です。
マンガも意味がないかもしれない、you-tubeも。でも、それから政治や人の心理や、機械の機能など、自分から吸収していっている。
好きなこと=無駄なもの、価値のないもの、っていうわけではなく、学校と並列、同等の価値、って考えていいんじゃないかと思う。
人生に役立つかどうかなんて、先になってみなきゃわからない。
学校も、好きなことばかりするのも、優劣をつける問題ではない。
大人が自分をわからずセミナージプシーしてる時、
どうなりたいか、どう生きたいか、子供のほうがリアルに見えてる。そこが見えてれば、学校でも好きなことでもどっちでもいいんじゃないかと思う。
というわけで、家を空けると
・部屋が片付く(人がいないほうが片付けたくなるらしい)
・放課後の時間に自主的に自転車で出かける(家にいっぱなしだと運動不足だと感じるらしい)
・おひるごはんは自分で見繕う(おなかがすくと工夫する)
・you-tube先生から、親も知らない分野の知識を吸収している。(知らない金属とか、どっかの国の政策の話とか)
・ドリルなどの勉強はしないが、何かイラストのうまい人やピアノのうまい人の動画をみつつ研究している
・棚や収納グッズが家に帰ると発明されているΣ(・ω・ノ)ノ!
という一応、プラスに働いているようです。笑
時折、年齢や状況や、惰性にならないように気にしながら、やり方を変えつつ、
「自立のための勉強」>進学のための勉強
と思って、これでいいのかな、と思っているこの頃です。
2冊本を読みました。
AIが実用化されつつある現代、いままで人と何かがちがうことはマイナスであったけど、これからは人とちがわなければ、機械のほうがゆうしゅうということにもなりえるとかんじました。